芭蕉は甲斐にやってきた??(5)
其角の『芭蕉翁終焉記』(『枯尾花』上巻所集。元禄七年十二月刊行)によると、 (前文略)天和三年(諸書には二年の間違いとある)の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかつぎて、煙のうちに生きのびん。是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の變を悟り、無所性の心發して、其次の年夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪みつれなればと、それより三更月下入ル 無我...
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それによると、 『随斎諧話』(夏目成美著。文政二年・1819刊) 芭蕉深川の庵池魚の災にかかりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平といふものあるじとす。六祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法を深く信じて、仏頂和尚に参学す。彼のもの一文字も知らず。故に人呼で六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしとみえり又、...
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さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。 天和二年(1682)十二月二十八日 芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。 天和三年(1683) 一月 当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に「天和 三癸さい旦」として記載。) 元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦) 春 (一月~三月)五吟歌仙成る。【連衆】芭晶・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭 花にうき世我酒白く食黒し...
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さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっているが。 国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。...
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さらに、 18.本山桂河氏…一時甲斐の国に退遁し仏頂和尚の弟子六祖五平方や初雁村の万福寺に仮寓して越年した。云々 19.吉本燦浪氏…芭蕉は甲州に赴きて杉風の姉、又は仏頂の弟子六祖五平などを頼りていたりしが。 20.沼沢竜雄氏…天和二年の暮、江戸の大火にて芭蕉庵焼失の時、杉風の勧めにて、正月から五月頃まで、初雁村の杉風の家に滞在、その間に東山梨郡等々力村万福寺にも仮寓、云々...
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素堂よもやま 「芭蕉画素堂賛」 「芭蕉の漢学は素堂が源流」 「奥の細道解」 「江戸の四哲 素堂・嵐雪・杉風・桃隣」 1、「芭蕉画素堂賛」 (前文略)一つは芭蕉が守武の像を畫き(「鳳尾」の印があるのみで署名はない)、 素堂がそれに、 荒木田千町吟 滑稽風冠古今 後學為拾落葉 成稻雀入俳林 葛飾隠士素堂賛 印 印...
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多くの俳人や門弟の中でこれだけ芭蕉を慕った人物がいただろうか 素堂、芭蕉追善句文(刊行年による) 元禄七年(1694) 『枯尾花』 深草のおきな宗祇居士を讃していはずや、友風月 家 旅泊 芭蕉翁のおもむきに似たり。 旅の旅つゐに宗祇の時雨哉 雲水の身はいづちを死所 元禄九年(1696) 『翁草』 頭巾着て世のうさ知らぬ翁草 元禄十年(1697) 『陸奥鵆』...
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